2020年11月21日(八段語録3733)
極真精神の提供


 真精神は義の道を究めるという事を、自分の名前を盛り込んで表現しています。極真の稽古を継続するというところに、高い精神性が生まれるのです。道場生は、稽古によって生きるという事は強調すべきことです。今日はもう少し極真精神について踏み込んでみたいと思います。第一に極真精神とは何か、第二に何故必要であるのか、第三に極真精神を何故公にしているかという三点で語っていきたいと思うのです。
 第一に極真精神とは何かという事です。道場で白日の下に晒されながら、道場生の人生を切り開き、稽古で汗と涙を流すことなのです。それだけに、極真精神は道場生の栄養素であります。それも食べるという行為をしなければならないのです。要するに稽古が食卓という事です。そこで、道場生に活力を与えるのであり、充実した人生を過ごすためのエネルギーを注入されるというものです。それ故に、自らの心身を投入しなければ、意味のない事なのです。ただ観客のように見ているのでは血肉にならないのです。稽古は自主トレと違って、人の目に晒されるのです。自分の稽古内容が白日の下に置かれるというのが、極真精神なのです。この内容はとても重要なのです。自分自身をこっそりと置いておくというのではなく、白日の下に晒されながら稽古をするという事なのです。
 第二に何故必要なのかという事です。ふしだらと不正は正しい精神状態でない時に起こりがちです。この状態に対しては、私は怒るのです。それだけに、戻っていく原点が道場生には必要であるのです。要するに道場生を正しい精神状態に置くための原点なのです。当然、模範となる義の道を歩もうとしている私としては、先頭を切ってモデルにならなければならないという事です。指導者の指標によって、道場生に多くの光を当てていくのです。道場生には益々の成長が願われるのです。
 第三に審査会を開いたり、大会に出場したりして、公にすることをしています。何故公にするかという事です。それは自分自身の義の修行を現すためです。日々、稽古を積み重ねているのですが、それがどの位のレベルに達しているかという事を、砥石によって磨きをかける為です。日々の稽古だけでは、虚しさを感じることもあるのです。それだけに、試すわけです。成果として、自分の修行が現れた時に、充実した状態を確保することが出来るというものです。稽古だけでは解決できない、充実感を公に現すという事で再確認するのです。
 このような義の提供は、道場生に等しく与えられ、何の差別はないのです。また、安心して稽古を続けていく事が出来るのです。決して人の道を脱線することが無いのです。それどころか、人の道が何たるかを知って、指導者として正しく歩むことが出来るというものです。極真精神は、努力以上のものを与えられるという確信さえあるのです。それは、極真空手という知識に基づくものではなく、義が提供されるという事なのです。それだけに、「義の道は極真精神にあり」と実感するのです。