2020年11月20日(八段語録3732)
義に到達するには


 義という概念は、不足している自己からの脱却という事を前提とするのです。あくまでも、日々の生活に安心と満足を蔓延させないのです。義は、足らない自分を自覚するということです。義が提供されるという発想を持たなければ、この道は歩むことはできないという事です。そこで今日は、第一に義の意味を考えます。第二に義はどのように示されるかという事です。第三にどのように取得するか、第四にその義がどの様に恩恵に至るかという事で論じていきます。
 第一に義の意味ですが、義という表現は道徳・倫理的表現なのです。当然、人間の本質が義という事ではないのです。あくまでも、人が義に至ろうとするのであり、義は、宣言して求めていくものなのです。義の冠を被って、義に似ていくという事を意味するという事になるわけです。
 第二に義はどのように示されるかという事です。日々の極真の稽古は、自分の足らなさを自覚するのです。これで良いという満足は、稽古を重ねるたびに遠のくのです。義が示される過程は、外形としては級・段の帯の色として示されるのです。自己の帯に沿って、内的な自己を確立することが、具体的な義の表示ということです。結果として極真精神が全面的に道場生の人格を覆うのです。
 第三に義を取得する方法です。稽古を継続する以外には無いのです。すべての道場生に与えられ、何の差別もないのです。「稽古」「極真精神」「万人平等」は普遍的三大原則なのです。稽古もせず、精神が乱れ、権威に溺れて威張っていては話にならないという事です。
 第四に、誰もが白帯から出発します。名誉段など意味は無いのです。段位は、稽古しなければ価値は無いのだけれど、稽古の継続によって価値あるものとして一方的に与えられるというものです。段位を取得すれば、良心という光に背かないという決意を持つことになるのです。極真精神が、段位に転嫁されるというものです。
 そのような義の内容を吟味すると、極真空手は、段位が義の「パスポート」なのです。つまり、義が級・段を土台とするのです。あくまでも義の冠を被るという事なのです。足らなさを忍耐でもって、満たしていく過程における向上心が段位という事になるのです。その方法は、稽古の継続以外にないのです。そして、その義の仲介が極真精神として捉えるのです。そして、結果は、道場の全ての道場生に現れるのです。それは、その個人と道場生に恩恵として現れるのです。義道の素晴らしさを義の道を歩むという事で表現できるのです。