2020年11月16日(八段語録3731)
指導者は不足しているという自覚から


 今日の箇所は、指導者が不足しているという観点からの論証であります。この立場にある私でも、まだ十分ではないという自覚があるのですから、他の指導者も謙虚な気持ちで不足を補うように努力すべきであると思うのです。この文章は、指導者に焦点を当てて表現してみました。理由も、表現してみました。第一に、私も含めて指導者は不足しているという事です。第二に、不足している証拠という事で、口元を中心に数珠つなぎに表現してみました。第三に、その不足をどのように改善して適用するかという観点からです。
 第一に、指導者が前に立つのは、優れているという観点では無いのです。指導者として選んだのは、私の一方的選択なのです。例え指導者が私を批判したとしても、任命は私にあるのですから甘んじて受けるし、指導者に対して愛情を注ぐという努力は惜しまないのです。それだけに、指導者としての特権に預かっていても、謙虚に不足を補うという努力は必要だと思うのです。
 第二に、不足している証拠です。すべての指導者は、帯の段位が示す如く、まだ向上しなければならないのです。悟りある人はいないのです。すべての人は迷い出て、皆無益のような立場なのです。少し油断すると腐ってしまうのです。極真精神から外れると、内的確信が間違ってしまうのです。そして人に対して、言葉の罪を犯しがちなのです。喉は開いた墓になり、その舌で欺くのです。唇の下には蝮の毒があり、口は呪いと苦さで満ちるのです。彼らの道には、悲惨と破壊があるのです。また、平和な道をなくしてしまうのです。
 第三に、どのように改善して適用すればいいのかという事です。ここで極真精神は必要なのです。指導者は、改善していく為のテストケースと自覚すべきなのです。指導者が失敗したならば、道場生はどのようにしていいか分からなくなってしまうのです。指導者は、私に選ばれ、課題をクリアしなければ、道場生は、どのようにしていいか分からなくなるのです。それだけに、段位は足らなさの自覚にあると思って精進して欲しいのです。つまり、段位は向上心の為の道具なのです。
 結論として、私達がゴールに到達するには、段位を道具として不足している自覚からの出発をしなければならないという事です。極真精神は、私達の裁きにもなるという事です。私達には良心というインスピレーションが与えられているのです。特に指導者は、極真精神を熟知しているのです。私達は、指導者として、失敗してはならないのです。というのも、指導者には二人の主人がいるのです。より高い極真精神か、自我かという事です。自我に至れば死を意味します。極真精神に仕えれば修練の完結が待っているのです。もし極真精神で修行を積めば、自分を高めるものであり、シミと傷のない生き方に到達するはずです。