2020年11月14日(八段語録3729)
指導者のあり方


 理由はどうあれ、指導者が人を裁くことが出来るかという事です。「挨拶ができていない」
「礼儀」「謙虚さ」「やさしさ」が足らないと思う道場生に対して、裁くという事をするならば、自分自身を罪に定めているという事かもしれません。裁くあなたが、それと同じことを行っているかもしれないのです。考えて下さい。指導者は道場生と区別することが出来るのでしょうか。確かに、道場生の非礼があるとするならば、弁解の余地はないでしょう。指導者は極真精神の知識は持っています。その知識を道場生に適用するという事でしょう。しかし、指導者もその知識を実行しているかという事です。これが検討課題という事になります。
指導者が、道場の指導の中で多くの罪と迷惑を他人に与えているかもしれないのです。
 それで、裁きという事で三つの原則から述べてみたいと思います。原則一、「正義」原則二「行い」原則 第三の原則「えこひいきなし」という事についてです。
第一原則の「正義」という事で考えてみたいと思います。意外と裁く人は、「人に厳しく自分に甘い」という二重基準を持っていることが多いのです。一般的に、裁く相手と自分が同じ罪を犯している場合は、特に相手に厳しくなりがちなのです。というのは、慈愛が相手を正しく導くという事を知らないで、慈愛と忍耐を軽んじているのです。「挨拶ができない」道場生がいるとするならば、自分がその道場生に慈愛をもって挨拶すれば良いのです。指導者が行動すれば道場生は悔い改めに導かれるというものです。
第二の原則「行い」という事で考えてみたいと思います。忍耐をもって、極真精神を行い、栄光と誉と不滅の者となって、自信をもって指導するという事です。指導者は「行い」に従って、報いを与えられるという自覚をすべきです。決して感情的になって怒ることではないのです。相手に対して党派心を持ち、怒りと憤りを持つならば、人から客観的に裁かれるのです。指導者は決して怒ってはならないのです。
第三の原則「えこひいきはない」とは指導者と道場生の間に罪の度合いの二重基準は無いのです。指導者にあっては、指導者の心得があるのです。道場生と公平になるという事です。人には、自然法というのがあるのです。いかなる文明においても、殺人は罪とされます。精神的に否定するという事も、精神的殺人に当たるというものです。良心は私達に与えられた光というものです。
 結局のところ、指導者も道場生も成長するという道があるのです。可能性としては大きいのです。自分が自分自身に対しての律法を持つという事が必要になってきます。律法の銘じる行いが、私達の心に描かれているのです。また、互いに責め合ったり、弁明しあったりしなくても、自然法はしっかり働いているのです。