2020年11月13日(八段語録3728)
極真精神から遠ざからない戦い


 かつて、池袋の総本部での稽古をしていました。大志を抱いて入門した道場生が途中で挫折して去っていったのです。その内容を分析すると、自己管理の乱れと悪友仲間に入るという事がほとんどでした。極真精神は、その乱れに対して、放置するという事でしか対応できないのです。もちろん、同僚として励ましましたが、いつしか道場から去っていったのでした。すなわち、極真精神への求道ではなく、彼らの心は、欲望のままに汚れに引き渡され、極真の精神とは全く関係の方向に落ちていったのでした。
 実に、汚れた者のようになり、高い志が不潔な着物のようになっていくのでした。もちろん、極真空手を続けて指導者になっている弟子も、木の葉のように枯れ、咎として風のように吹き散らされてしまうのです。それで人としては弱められ、更に深い闇へと走っていくのでした。結局のところ、極真精神に至るかそれとも自己中心に精神が乱れていくかという二者選択になるのです。特に、肉体だけは鍛えていますから、性の乱れが甚だしくなる例が多かったのです。
 さらに情欲が深まって、ネオン街に出入りするようになったら、もう稽古どころではなくなるのです。情欲がさらに増し加わって、稽古から離れていく道場生が多かったと記憶に残っているのです。それも先輩が誘うようになると、酒と男女問題という事で稽古どころではなくなるのです。それだけでなく、堕落した思いにふけるようになるのです。それも、赤信号みんなで渡れば怖くないという発想で、自己正当化して極真精神と反して悪行を繰り返すようになるのです。更にそのような道場生に同意して、連なって自らも落ちていくのでした。
 私としては、本部道場に通いながら、どのように精神状態を維持して行くかという観点で稽古をしていたのでした。私自身は極真精神にしがみついて離さないという覚悟が出来ていました。それで酒とタバコはカットしました。我が家は厳格に教育を受けていましたから善悪の判断は鋭いものがありました。悪に染まる結果の予告を受けて「しつけ」で教育されていたのでした。それだけに、自分自身が自分に対する律法を持っていたのです。私にはやってはいけないという事を、心の中に書かれていたのだと思うのです。それだけに、互いに責め合ったり、弁明し合うという事は無いのです。私には神仏のかたちが残っていたという事です。それだけに、良心に忠実という事でもあったのです。