2020年11月12日(八段語録3727)
罪悪と悩みの矛盾状態からの脱却


 人の心は、不義をもって真理を阻んでいる状態に置かれることが多いのです。人の不敬虔と不正に対して、道徳基準も法律も決して許すことは無いのです。まだ内面に潜んでいるうちは、許されるでしょうが、表面で現れた場合は事件や事故につながっていき、最後は犯罪に至るのです。私の場合でもパワハラに対しては憤りを感じます。私の立腹と憤りは相当なレベルまで上がってしまいます。別に復讐しようとは思いませんが、私の愛情の中に出てくる感情という事でもあります。極真精神が無いかのような生活は私には考えられないのです。
 当然、一般の人は、法律はもとより、道徳や倫理という社会常識があって行動しているのです。当然、人の生き方は、神羅万象という自然の中に現れていて、弁解の余地がない程明確に示されているのです。手塚グループの三大理念の中に、「自然を愛する」という事が掲げられていますが、まさに、「自然をお手本にして生きよ」という事が明確に示されているのです。要するに、目に見えない物によって見えるものが創造されるという原則からなのです。その創造された被造物は、実に原理原則になっているということです。
 ところで、人間は、それを押さえつけて自分勝手に生きていくのです。人間は意図的に真理を押さえつけているのです。だから弁解の余地があろうかというものです。人は意図的に堕落のステップを踏んでいくのです。感謝もせず、思いを空しくして、無知な心は人生を暗くもするのです。そして傲慢にも、自分を高めて愚かなものにしていくのです。理解力が不鮮明になり論じる力も減退するのです。一般の人がそうであるならば、極真精神を知っている私達はどうであろうかという事です。道場で修行しているのですから、特別に修行しているのです。それでもって、「パワハラ」の言葉で表現するとするならば、反省しなければならないという事です。
 結果、人間は、本心を押さえつけて自分勝手に生きてしまいがちなのです。意図的に極真精神に反するとするならば、とんでもない事です。それは滅びに至ると言って過言でないのです。人は与えられたインスピレーションの度合いによって、審判されるというものです。極真空手に出会って、極真精神を心得たものは、極真精神に裁かれるというものです。極真精神を知ったものとしては、いかに具現化して生活に適用するかという事が、罪悪と悩みの矛盾状態からの脱却になるのです。