2020年11月10日(八段語録3726)
このブログの主題 (極真精神を恥とはしない)


 極真精神を恥とはしない理由は、極真精神には、稽古で汗を流すことによって、本心に立ち返らせるのです。継続する事によって、義の啓示を受けるに相応しい器になるのです。それだけに、稽古に夢中にさせる力が極真精神には、内在しているのです。その結果間違いなく稽古を通じて人は生きるのです。ここでは、極真精神の本質を理解するという事がメインになります。
 極真精神は義の啓示受ける器になって、人として正しい道を歩めるというものです。その義の啓示を受ける方法として、稽古が必要なのです。間違いなく、人としての生き方に違反しない状態を維持できるというものです。このような義は、稽古によって始まり稽古によって実現するのです。極真精神は最初から最後まで稽古を土台としてのみ実現することができ機能するのです。
 最初に、道場に入門するという事は、善良な人間になるという宣言をするようなものです。今までの生活環境に道場の稽古が侵入するようになるのです。その稽古が著しく生活姿勢を一変させてしまう力があるのです。ここに極真精神が注ぎ込まれ、義認されるのですつまり、義の冠を被るのです。次に、稽古の継続という事になります。この稽古は人格完成へのプロセスという事になります。さらに、どこまで稽古を継続しなければならないかというならば、完成した状態になるまでという事です。人生の終着駅に到着するまでなのです。
 つまり、人生の最後の死に至るまで稽古は続くという事です。それによって、自分の姿が栄光に輝くというものです。栄光の姿を見るまでは稽古は続くのです。入門して義の冠を被り、稽古を継続して人格完成への道を歩み、最後に栄光の姿を示すという三つのステップを踏むのが極真精神という事になるのです。途中で挫折してしまうようでは話にならないのです。極真精神を心の中で燃え上がり、常に生きて働きかけるまでなのです。
 もちろん、このような教えは新しい教えでなく、先賢達が指導してきたことなのです。当然、人生は試練があり、暴風に見舞われ難破しかけるという事もあるのです。それでも、最後まで耐え忍ぶことによって、誰もが越えていく事が出来るのです。そして、極真精神が最良であるという確信のもとに最後まで走り抜くという事が大切であるという事です。このことによって、極真精神は生きるのです。