2020年11月9日(八段語録3725)
このブログの主題 (極真精神を恥とはしない)


 私が命懸けに50年間、極真空手を修行した理由を述べていきたいと思います。それは、極真空手に誇りを持っていたからです。この乱れた世の中で、この精神が自らを救うという確信を持ったからなのです。栄光に輝く人生は、傷のない、染みのない生き方から、出発するならば、実現するという確信からなのです。確かに極真の稽古は苦しい修行が連続するのです。その修行よって多くの知恵が与えられ、力が漲るのです。今回は、極真精神の力、その精神が己の人生を救う事になるのです。そして、この極真精神は、道場生はもとより、多くの人に広がっていかなければならないと思っているのです。
 さて、この極真精神は、力が漲っているという観点から話します。はっきり断言する事は、極真精神には神仏の力があるのです。究極的には、極真空手は、大山総裁の地上最強に由来しているのです。総裁の生涯で計画した全てを成し遂げ、極真空手を世に出すことに成功させたのです。私は、この極真空手に神仏の力が宿っていて、私の人生の行く手を照らしてくれていると確信しているのです。この年齢まで極真の道をブレることなく、正しく歩むに至っているのです。実に半世紀の間、継続していると多くの事を学ばされたのです。
 次に、極真精神には、人を救済するという力が内在しているのです。それは、道場に入門した瞬間に与えられるものです。魂の救済という事です。迷える子羊が導かれる方向に行くという事です。もちろん、入門してすぐに善良な人間になったという事ではないのです。道場に通うようになって、新たに道場という環境が与えられるという事なのです。その環境は、神聖なのです。その神聖さが、今までの人生の垢を取り除き、義認されるかのような気持ちになるという事です。つまり、義の冠を被ったという事なのです。それが、修行年数が多くになるにつれて、人格の完成に向けてのプロセスを歩むという事になるのです。その結果、人生を満足して喜びを持って、完結するという事になるのです。
 結論として、この極真精神を恥とはしないのです。この精神に条件を付けることは無いのです。そのまま、継続するという事に意義があるのです。ただ稽古を怠らないという事だけなのです。極真精神で成長ラインは先輩たちが築いてきました。もちろん、失敗して離れた先輩もいますが、戻って再び修行をするという事になれば良いだけの話です。苦難の多い修行は必ず報われるのです。