2020年11月1日(八段語録3720)
何のために書こうとするのか


 何のために、ブログをアップするかというならば、第一に極真手塚グループの組織理念のまとめということであります。手塚会長より引きついて、3年半の歳月が流れたのですが、まだ手塚会長の未来予想図の構築に至っていないどころか、語られた理念の現実的適用が不受分であるのです。それだけに次に目指すべき道は、世界各国に極真空手の精神を根付かせると言う事なのです。その為の工夫を駆使して「家族・対話・自然」という手塚会長の残した理念を実践してして継承していく使命なのです。
 それだけに留まらず、極真会館に入門して修行してきた五十年間を振り返って、自らの稽古理念をまとめていく必要を感じているからであります。手塚グループは、武道団体と言うより、家族として世界の道場と絆を結ぶ意義を強調していいるところにあります。家族(道場)と家族(道場)のコミュニティを築こうとするのです。極真手塚は家族に土台をおいて、道場生一人ひとりが極真精神で成長してもらいたいのです。当然、自分とは何か、極真精神でどのように変わったかと言う観点も忘れずに書き置きたいのです。
 ところで、執筆目的に関する観点で強調したいことは、私自身、教育者であって「天からの賜物」は、人に教えるところにあるのです。確かに全日本オープントーナメントで活躍もしたのですが、人を指導するための業績を蓄積する観点で選手として出場したのでした。はじめからチャンピオンを目指すというよりは、極真空手で青少年の教育をしようとする意識が強かったのです。それだけに、私の文章は、選手という観点よりも、教育者としての観点が強いのです。極真会館が地上最強を唄って、半世紀も過ぎているのです。いまだに教育において、人に影響を与えるとという点で、地上最強は健在なのです。極真という範疇では、分裂があり、多くの同士が分かれてしまったのですが、この分裂を超えて行ける内容は、青少年教育に他ならないという信念なのです。
 確かに、極真空手は、広い門かというならば、否、狭い門です。人が生まれ変わるには、厳しい稽古がいいという主張です。それは、立派な人格を保つ地位と名誉を維持していくというところにあります。私は極真精神を恥とは思っていないのです。人を立派にする神仏の力が宿っているからです。ここで手前味噌の話になるのですが、義道が示されているのです。義人は、極真精神によって生きるという信念です。