警察講演内容
平成26年6月24日 東警察署 二階会議室
極真会館 代表師範 森義道
極真空手の理想と自己管理
自己紹介・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2
第一節 理想の意味・・・・・・・・・・・・・・3
第二節 極真空手の稽古とは・・・・・・・・・・4
第三節 極真空手は直接打撃制・・・・・・・・・6
第四節 極真空手は真剣勝負・・・・・・・・・・7
第五節 武道家としての姿勢・・・・・・・・・・8
代表師範 森義道八段のプロフィール
1953年 仙台市宮城野区生まれです。
1975年 極真空手・大山倍達総裁の門下生となり、極真精神を学びました。
1992年 故郷である仙台市に戻り、東北学院大学院前期博士課程に学び、青少年の健全育成に関わる仕事を模索していました。
極真空手は人間としての人格教育の原点にあることを確信し、1996年極真会館宮城県本部を開設、健全な武道教育により社会に役立つ青少年の育成を目標としています。
保護司、薬物乱用防止委員、少年警察補導員、消防団活動等、地域に根差した活動を続けています。
極真会館副会長として、ヨーロッパやアメリカを初め世界各国の道場生を指導しています。
家庭では農業家として農業に携わり、下宿業を営む妻との間に1男2女を育て、長男は柔道整復師として研修を受けながら、私の後継者として空手の修行を続け、現在は少年部の指導に当たっていいます。
第一節 理想の意味
創始者大山倍達は、極真会館を創設するに当たり、空手道に対する理想を「地上最強の空手」と位置つけていました。その理想は、今の極真会館をはるかに上回るところに置かれていることに間違いないのです。それは、創始者の心の中で育てられ、創始者と共に成長し、その心のベースの延長にあったのです。極真会館の存在は、創始者の偉業を世界に広め、その土台のうえに、空手道を通じての人間完成の目的を立てているのです。その根底になっているのが剣豪の宮本武蔵なのです。
そして、その土台の上に、変わらざる創始者の提唱した「頭は低く、目は高く、口慎んで心広く、孝を原点として他を益する」という武道精神が、空手道を通じて人格の淘治と心身の鍛練をはかり、社会貢献を遂行しているのであります。それは、我々に対する大いなる目標である事は間違いないのです。
この目標は、我々だけのものではなく、創始者の心の延長のすべてが加担されての思いに他ならないのです。この空手道を通じて武道精神が自分自身に身につくのなら、勝利と栄光が充満した人間として成長するだけではなく、勝利の表示体として、誰もが認めざるを得ない、武道精神を持った人物を作り上げていくに違いないのです。
そこで初めて、創始者の偉業が一人一人の弟子に伝達されたことになるのです。ここに、極真精神の価値があり、本当の極真会館の存在意義があるのです。このことが、創始者の要求であり、願いなのです。大山総裁は、「武の道において千日をもって初心となし、万日の稽古をもって極とす」と座右の銘として語っていましたが、まさに、茨の道、血を流す道、生死の境の開拓の道を歩まれたことは言うまでもないのです。万日といえば、30年近くの歳月なのです。
私は、極真空手に出会ってから、40年にはまだなっていないのですが、万日を過ぎてみて、反省ばかりなのです。雑務に追われて空手の稽古ができない日々も過ごしたのです。年齢を重ねて、身体が弱り果てていくことを痛感し、稽古への執念を再び燃やそうとする日々であったのでした。
稽古ができないとうことは、単に肉体の衰弱というよりは、精神力の衰退を意味したのです。空手道は、自己との戦いであり、私の精神の成長のためにあるといっても過言ではないのです。その「万日の稽古を持って極とす」とう大山総裁の座右の銘は今にして実感させられるのであります。心を極める、道を極めるという意味での極真という言葉は、まさに「真実を極める」ということに他ならないことになります。
第二節 極真空手の稽古とは
極真空手は、礼は当然の事、稽古をもって始まり稽古で終わる修行の自己練磨に他ならないのです。この極真の稽古に参席した私達は、汗と涙を流す稽古に在籍したことになるのです。この道場は、止めることのできない汗と涙を流す場所になったのです。
ここに「私達は何で持って修行に参加するのか」ということになるのですが、私達の心身のすべてであり、外的に身体を動かすことではないのです。自己修行でも、選手を目指すことでも、魂のすべてを投入することになるのです。稽古に臨むということは、喜怒哀楽は勿論、勝負の悔しさ、心の奥深くあるすべてを確認することができる気持ちが培われることになるのです。
稽古で流す汗と涙は、お金に換える事ができない無限の価値を生み出すことになのです。このような心が稽古の中での中心的心情としてにじみ出るとき、初めて極真の精神に触れることができるのです。
では道場での稽古とは何かというと、極真精神を厳粛に相続することができる場所ということになるのです。私達が極真精神を相続し、私達自体にこの精神が留まる事によって稽古をしたという実感が生まれ、この感性を持って稽古に参加した資格者になり得るのです。これを再三心に留めておかなければならないことを言われ続けてきたのです。このようにして初めて稽古の中で、すがすがしい感動が私達にもたらされるのです。
例え苦しみの中であったとしても、稽古が終わった後に、すがすがしい感動が用意されていることを私達は忘れてはいけないのです。その中にあって、新しく私達が何か違った気持ちを得るのです。それは、良き自分の姿を見ることであり、自己発見の第一歩が始まることになるのです。
極真空手は、道場生と一つになって稽古をするのです。つまり、指導者の下、準備体操から、基本稽古、移動稽古、そして組み手に至るまで、全体がまとまって稽古するのです。ボクシングの個人を中心とした練習とはだいぶ違うのです。これは、空手の独特のスタイルなのですが、道場生一人一人の無限の能力を、全体が一つになることによって発揮することにつながるのです。
稽古での臨場感を高め、我ならぬ我を追求することになるのです。稽古で否応なく思いっきり汗を流すにいたるわけです。これは私たちが自然に体験することなのです。心身が一つになって、指導者の気合の下、不思議な力が湧き上がる。決して一人では生まれない力が溢れるのです。このような稽古の方法は、極真の伝統として先輩たちから指導を受けてきたのです。その頂点に、自分がいると思うようにするのです。
私は稽古の中で、創始者がなされていることを再現しようと努力するのです。ここに再現した稽古は、自分を育ててくれた青春時代の汗と涙がにじんでくるのです。有難いことに、この稽古が自分に深く沁みているのです。稽古の伝統とはありがたいことです。今まで稽古してきたすべての内容を自分が具備しただけで、何か今まで創始者との絆が深く結ばれてくる思いがするのです。
しかし、稽古における理想は、勝負に勝つことであり、己に勝つことを意味するのです。弱い自分の姿が稽古の最中に現れるわけです。そんな自分との戦いが曲折する稽古の中で行き来するのです。弱い自己の運命を完結すべく勝負を挑むのです。再び本来の自分に遭遇することになるのです。全体で練習しながら、このような練習を経て、稽古で新たな自分を発見するのです。これは、いろいろな道場に分かれていても変わらない極真の伝統なのです。指導者が変わろうと時代が変わろうと自分にとっての極真の稽古は続くのです。
今日、極真空手の道場を中心として見るとき、未熟のようではありますが、過渡的状況にあると定義したいのです。というのも、これからの勝負で次の勝利が待ち受けているのです。私たちがあらゆる切磋琢磨をするときに、極真の伝統は変わらないと宣言できるのです。稽古の伝統はいまや、私を駆り立てる何かを持っていると言って過言ではないのです。稽古を通して自分に多くの恵沢を与えることができるのです。それを考えると、良心に耳を傾け、邪心を退けようとする極真空手は、私の胸深くに連結されていくことに気がつくのです。
第三節 極真空手は直接打撃制
私達は、創始者大山倍達がドラスチックに空手界に波紋を投げかけたことを実感しているのです。極真における直接打撃制は誰が認めなくとも、今では一般社会でその理想を受け入れているのです。また、世界中の人々は極真空手の実践スタイルを支持しているのです。直接打撃制は、選手においても、当然必要でありますが、子供たちから壮年に至るまで、極真空手にとって無くてはならない真剣勝負の方向性であるということは事実なのです。まさに極真空手は、直接打撃を世の中に問うたのです。それを願った創始者の生き方や、生活の基本は、まさにここに原点があったのです。
創始者率いる極真空手直接打撃の理想は私達の理想であり、その理想は今の時代だけ果たされる理想ではなく、国を越えて、時代を超越しこれからも成し遂げられていく素晴らしい理想なのであります。ここに真実があるから武道であり、武道に生きる意味があるのです。生死を懸けた気持ちの戦いが重要であるという意味でもあるのです。
直接打撃とはまさに、自分に厳しく怠惰な自己との衝突であり惰性を排斥しなければならない戦い方なのであります。もともと極真空手において直接打撃が自分を鍛えたのです。私が、その表現された武道に接したとき、今の自分を鍛錬して試合の場に臨んだのです。その原点に立ち返って武道に従った自分を省み、生活の原点を直接打撃へ真剣勝負を挑んだのでした。
第四節 極真空手は真剣勝負
極真空手は、真剣勝負なのです。素晴らしい選手は素晴らしく稽古した選手であり、力 強い選手であれば、力強く稽古した選手であるのです。優勝した選手であれば、優勝するほど稽古した選手なのです。極真空手に例外は無いのです。極真空手は例外がないから実践空手なのです。私たち極真空手は、理論的、実践的、科学的、計画的な稽古をするのです。まぐれで勝つということは、例外の例外であって、そんなことが起これば選手として大きな穴が開いて しまうのです。だから、稽古が必要なのです。
極真空手は、日々が稽古であり、稽古を必要とするのです。私が極真空手で培った精神は、負けたくないということであります。当然、自分に対しては絶対に負けたくないのです。私は、今も戦いの人生を歩んでいるのです。この一時を戦わなければ自分の人生はマイナスになのです。この一瞬が危機であるという意識で稽古に取り組むのです。
ところで、最近稽古をいい加減に考えて、こうでもない、ああでもない、適当なやり 方で極真空手を修行していく人がいるとしたら、誰も相手にしてくれないのです。黙 って何も言わず、検討もしなかったら、いかに容易いだろうかとおもうのです。
しかし、そうはいかな いのです。 だから、これからは稽古を通じて実力と実行力を持つ人間を目指そうとするのです。言葉だけでは ないのです。稽古の実績が問題なのです。
第五節 武道家としての姿勢
武道家として心がけなければならないのは、人権と環境を蹂躙してはいけないということです。武道を志すものは、人権と環境の公的なすべてに関して蹂躙してはならないという思想を、徹頭徹尾持たなければならないのです。森羅万象のすべてに関して大切にする心、家族を大切にする心、民族、国家は勿論、世界人類を大切にするという心を持たなければならないのです。そうでなければ、極真空手の目指す武道世界は実現しないのです。極真空手を通じて、多くの関わりある人々と環境を大切にするということであります。
私たちは、人にも環境にも優しい心を育てなければ武道家としての誇りは持てないのです。乱れた世の中であればあるほど、人権と環境を尊重し重要視することができなければ、ただの暴力を学んでいるのとなんら変わりないのです。
詳しく述べるならば、私たちは、暮らしている家が大切であり、食している食物が大切であり、着ている着物が大切であり、私たちが携えている生活の基本も勿論大切であるという認識が必要です。特に空手は、心身を育てるわけであるから、私の肉体も大切にしなければならないのは言うまでもないのです。このような立場で私達の一身を通してお互い尊重しながら生活をすることを願うのが武道家として当然の道になるのです。ゆえに「尊重する心」を度外視して対処してしまえば、良き結果は生まれないのです。
しかし、道場において先輩であるといって、後輩を大切にしない風潮が生まれるとしたらそれこそ残念なことに他ならないのです。自己中心的な気持ちで後輩に接するとき、後輩は傷つき、このことで道場に足を運ばなくなるのです。後輩に責任を持つということは、「大きな心、広い心」を先輩として育てていくことに他ならないのです。さらに、先輩として人の道に外れるとしたならば、極真空手をやる資格などどこにもないのです。青少年の健全な育成のために先頭に立たなければならない指導者が、いい加減な気持ちで生活していてはいけないのです。
しかるに、武道家は、誤った人々を大きな心でもって指導できる人間像を目指すと共に、自己研鑽に、磨きをかけていくべきなのです。このような立場に立つとき、極真空手を通して、精神の共有、技の共有がなされ、大いなる偉業が道場を通して築き上げることができるのです。初めてここに道場としての面目を立て得るのです。私達が心に留めておかなければならないことは、人権と環境を決して蹂躙することなく、一生涯かけて空手道をまっとうしてほしいということであります。